
※ 〈暗殺者たち〉レビューは第1部から続く。本稿には映画のネタバレが含まれている。

タクシーを止めた瞬間
東京でヨンイルを迎えたのは、極東グループ東京支社に勤める在日韓国人のイ・ガンジャだ。初めは彼女を煩わしく思っていたヨンイルも、やがて彼女の通訳を頼りに取材を続ける。「伊勢丹で買い物をしている」と兄にはごまかすつもりだというイ・ガンジャとともに大阪へ向かい、ムン・テグァンの足取りを追う。そしてついに、ムン・テグァンが最初から一人ではなかったことを突き止める。
前田。巧みに近づき、十分な金と優しさ、認めてくれる言葉と新たな思想を与えた人物だ。韓国へ行ってもすべて面倒を見ると約束し、ソウルでは明洞の高級靴を2足買って、一緒に分けて履いた。急進的な思想に傾倒したものの、日雇い労働で暮らしていたムン・テグァンにとって、前田は新しい人生と偉大な仕事が可能だという幻想を見せたのだろう。「血は熱いのに、現実は冷たいから」と。2人が親しげに並んで撮った写真が残っている。孤独な若者をテロリストにしたのは、脅迫ではなく優しさだった。
その真実を握ったヨンイルは、中央情報部の襲撃を受ける。イ・ガンジャが最後にかけた電話のおかげで空港へ逃げることもできたが、ワゴン車に乗せられていく彼女を見た瞬間、タクシーを止める。特権が用意した逃走路を捨て、全身でワゴン車を阻む。右手を折られても、最後まで彼女を守る。何不自由ない特権を享受しながら真実に近づいていたヨンイルは、初めて、自分が持っているものが通用しない場所で体を張って代償を払う。国家暴力の重みを体で受け止める場所。ジェファンが先にトラックから投げ出された、まさにその場所へ、ヨンイルも折れた手を抱えてたどり着く。

手を失った場所
ヨンイルは右手に大きなけがを負い、もはやタイプライターを打つことも、手帳の上を万年筆で素早く走らせることもできない。権力は、記録する手を折るかタイプライターを壊せば、記録も止まると考えたのかもしれない。しかし右手を失ったヨンイルは、最後の闘争の最前線で体を使ってできることをすべて行い、バリケードを築く。修羅場と化した現場で、革靴の蹴りとこん棒が飛び交う中、机の上に上がり、最後までカメラのシャッターをギプスで固めた手で押し続ける。
「自由言論実践宣言」
ジェファンが書き上げた文章は宣言となり、ヨンイルはその文章を体で実践する。砂で壊れたタイプライターのそばに置かれたペンと、折れた手に代わって前へ出る体。記録と実践が交わる瞬間、一つの宣言が完成する。こうして真実を追った者たちの熱い心臓が集まる。革靴に踏みつけられながらも宣言文を最後まで読み上げたジェファンは、再びトラックに乗せられ、どこかへ連れ去られる。今度は血の跡が付いた包帯で目を覆われ、隣にはチョルグがいる。ペンを握った者と、制服にアイロンをかけて着ていた者が同じトラックに乗せられる。彼らに見えるのは、網のように張り巡らされた隙間から差し込む一握りの光だけだ。真実は完全には見えず、道も分からない。それでも網には隙間があり、その隙間から光が差す。問いを発するとは、権力が緻密に編み上げた説明の網に絡め取られず、その隙間から入り込むものを最後まで見つめることではないか。

15年後
映画は1989年へ飛ぶ。テレビでは聴聞会が生中継され、1974年当時、現場の鑑識を担当した鑑識課長が証人として出廷する。彼は現場で撮影しながら、ついに世に出せなかった写真を示し、ファーストレディーを貫いた銃弾について語る。眼鏡を押し上げる手は震え、1974年の捜査本部長は彼に向かって「赤だ」と叫ぶ。15年前、会議室の赤いペンが見出しを消したとすれば、今度は赤い烙印が証人を消そうとする。
その聴聞会をジェファンが見守る。隣にはヨンイルがいる。編集局の天井から下がる札は漢字の「社會部」からハングル表記の「社会部」へ変わり、同僚たちは少しずつ年を重ねている。背景が変わったことを考えると、ハングルと横書きを最初に始めた新しい新聞社へ移ったのかもしれない。映画は説明しない。ただ、彼らが今も記者として存在していることだけは明らかだ。
同じ時刻、チョルグはマンションの警備室で同じ聴聞会を見ている。彼はついに警察へ戻ることができなかった。アイロンをかけた制服を着てムン・テグァンに最後まで真実を求めた人物。赤い暗室の中でだけ、ささやくように静かに話し始めた鑑識課長の説明を聞いた人物。そのチョルグが今、警備室の小さな画面の前で、あの日の真実がついに語られるのを見つめている。映画はこの非対称性を隠さない。真実が遅れて姿を現したからといって、そのために代償を払ったすべての人が元の場所を取り戻せるわけではない。

持続性が証明するもの
〈暗殺者たち〉は、伝えようとすることを常に比喩の背後に隠す映画ではない。時に感情的なトーンが劇の厳粛さとぶつかり、登場人物が自らの信念をあまりにも明確に口にすることもある。しかし、それを単なる欠点とだけ捉えたくはない。ある時代には、当たり前のことを当たり前だと言うことさえ、一つの行動になるからだ。
真実を追い求めるには、熱い心が必要だ。しかし、この映画が見せる熱さは、簡単に燃え上がる情熱とは異なる。土の斜面に投げ出された後も、再び取材すること。タイプライターが止まっても、ペンを手に書くこと。手を折られても、全身で立ち向かうこと。免職された後も、制服にアイロンをかけて着込み、問い続けること。そして、世に出せなかった写真を15年間保管すること。
真実を追う人の熱さは、温度ではなく持続性によって証明される。〈暗殺者たち〉のエピローグは、その一文の証明だ。真実を問い、要求することが正当に報われる保証はない。トラックに乗せられ、手を折られ、制服を失う。それでも彼らは最後まで問い続ける。損得勘定では説明できない行為だ。3人とも、生まれつきの闘士でも、巨大な思想にとらわれた革命家でもない。ただ、それぞれの職業倫理に最後まで忠実な人々なのだ。
カミュは『反抗する人間』で、反抗の出発点を巨大な理念ではなく、「ここまでは越えてはならない」という一人の人間の中にある境界線に見いだす。生涯命令に従ってきた人が、ある瞬間「ノー」と言う時、その拒絶は同時に、自分の中に踏みにじられてはならない何かがあるという肯定になる。ジェファンとチョルグとヨンイルの抵抗も同じだ。耐えに耐え、これ以上は越えられない線の前で立ち止まる。速い呼吸の中で、うっかり見過ごしてしまいかねないのは、まさにその内面の小さな亀裂が始まる瞬間だ。映画音楽はその変化を見逃さない。エレキギターとファゴット、フルートとピアノは、感情を代わりに説明するのではなく、心が一方から他方へ傾く瞬間を静かに後押しする。

彼らに偉大になれ、最後まで真実へ向かえとささやいた人はいなかった。そのささやきに惑わされたのは、むしろ銃を手にしたムン・テグァンだった。前田が与えた金と優しさ、巨大な思想は、認められることと交流に飢えていた孤独な人間を、他人が書いた脚本の中の道具に変える。彼の体がその事実を先に語っている。映画の後半、ムン・テグァンはずっと、中身が空っぽの人間のようにふらふらと歩き、目には焦点がない。チョルグが真実を話してくれと絶叫しても反応しなかった彼が、ただ一度だけ生気を取り戻す瞬間がある。すべての判決が終わった後、前田を見つけた時だ。空虚だった目が輝き、彼は初めて、生きた人間のように戻ってくる。真実を問う声には反応しなかった目が、別の名前で近づき、彼に大義の英雄という役柄を与えた人物の顔を前にした時だけ輝く。この映画で最も寒々しい場面だ。
手のクローズアップが際立って多い〈暗殺者たち〉は、2種類の行動を並べて見せる。外から注入された偉大さに動かされる手と、内側の小さな亀裂から自ら動き始める手だ。宣言は後者の手から、「熱い心を集めて」ペンを通じて生まれる。この映画が最後まで追った真実は、一つの定められた結論というより、人間が取る態度、つまり選択の姿勢に近い。巨大な信念は誰にでも与えられるわけではない。しかし、どの瞬間にどのような姿勢を取るかは、誰にでも残されている。
ホ・ジノ監督は、暗殺事件の真実を完全に復元したとは主張していない。映画がファクションであることを繰り返し示し、実際の記録と映画的想像の境界を浮かび上がらせる。だからこそ、より誠実な仕事をしている。歴史の中でぼやけた問いを、再び問いの形に戻しているのだ。
1974年の捜査本部記者会見場で、ジェファンがついに耐えきれず叫んだ言葉がある。「今、明らかにしなければ」。映画はその文の後半をあえて口にしない。ただ2度繰り返す。今、明らかにしなければ、このまま事実になる。今日の歪曲は明日の新聞記事となり、やがて公式記録となり、十分に長い時間が過ぎれば歴史になる。実に15年かかった。その間、問いが消えなかったからこそ、生中継の画面の上に、語られなかったこと、明らかにできなかったことが戻ってくることができた。〈暗殺者たち〉は、そうして最後まで私たちに問いかける。今、明らかにしなければ、いつ明らかにするのか

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